赤ちゃんにとって他人というのは存在するのでしょうか?
皆さん、明けましておめでとうございます^ ^
まだブログを開始して間もないのですが、今年も皆さんと一緒に、人間が共に仲良く生きていく道を考えていきたいと思っておりますソスクです。
大風呂敷ですけども、皆さんももしよろしければ一緒に楽しんでくださいね(^^)
もっと直接に手段や方法について書けばいいのに、とお感じになる方もいると思います。
でも、僕自身もそれはわかりません。
方向性はなんとなく意識してはいますが、僕が何かわかったと感じたところで意味はなくて、それぞれの理解が大事だと思うんです。
ですから、さまざまな点について皆さんと考えながら見出していきたいです^ ^
それでは、新年1番目の内容に参りましょう!
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昨日は理屈的にどこまでが身内で、どこから他人なのかということを考えてみましたね。
血のつながりを軸にしたら、すごい多くの人が同じルーツから生まれてるんじゃないの??
ということがわかりました。
樹の枝分かれみたいな感じですね(^。^)
なので、こういう血脈という事実がありながら、なぜ僕たちは身内と他人を区別するのかという疑問に至ったわけです。
皆さんは何でだと思いますか??
僕はこれ、本当によくわからないんですよ。
強いていえば、いつの間にか当然視していたというか……。
この人は家族だ、この人は他人だ、とあえて考えて行動しているわけではなくても、自然とそういう形の態度を取っているというか。
でも赤ちゃんとか誰彼かまわずタッチしに行ったりするので、赤ちゃんは区別的な発想をしていないんでしょうかね(^^)
よく禅とか瞑想の話では、赤ちゃんのような、差別なくまっさらなものの見方がすばらしいと言われたりします。
そういうあり方が悟りだ、と語られることもあります。
皆さんもお聞きになったことがあるかもしれません。
ですが、どうして区別の発想を僕たちがし始めてしまうのかがよくわからないんですよね。
説明はいろいろあるとは思いますけど、実際に自分たちでこれを理解できるのか、そうでないのか。
これを見出したいんです^ - ^
なんとなくなのですが、これを僕たちの誰もがよくよく理解できたら、すごく人間同士の関係とか世の中の様子とか変わる気がしているんです。
ちょっと青すぎるかもしれませんけど、本気ですよ(^.^)
それで、改めて、
僕たちはどうして、どんなきっかけで他人を区別する発想をし始めるのでしょうか?
これを次回は考えてみることにしましょう。
自分でも驚きなのですが、今回の流れの最初に掲げた3つ目の質問と同じ質問になりました(^^)
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……ということで、元旦もお読みいただき、本当にありがとうございました
今年も皆さんにとって良き年となるようお祈りいたします^_^
僕も楽しくブログの更新をしていきたいと思いますので、今後ともどうぞよろしくお願いします!
本音対話も募集しています。以下の記事をご覧くださいね(^^)
それでは、失礼します。
ソスク