他人が現れるとき、自分も現れる?
皆さん、こんにちは。
ソスクでございます(^^)
ビジネスホテルってけっこうリラックスできますよね。
ぼくは用事がなくてもただ泊まりに行ったりすることもあるんですけど、皆さんはどうですか?
ホテルによっていろいろ雰囲気やサービスも違って、なかなか面白いですよ^ ^
部屋に物が少ないからゆったりできるという面もあるかもしれません。
狭さは避けがたいですが(笑)
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昨日は、どんなときに「自分」というものを強く感じるかを考えていました。
そして、強く「自分」を感じるときはけっこう「他人」の存在が前提となっている場合も多いようだということがわかりました。
それでは、この「他人」が存在しないならば、僕たちは「自分」を感じるのでしょうか?
またいくつか場面を想定して検討してみましょう。
①夢の中
②山奥、砂浜、田舎の一本道、誰もいない体育館など、人がいない場所
③無人島
それでは、まず①夢の中はどうでしょう?
夢の中というのは、完全に僕たちの内的な世界のはずですから、他人は本来全く関わっていませんよね。
(夢は人類共通の無意識や宇宙の意識の現れであるといった説明もありますが、今のところ僕はそれを直接自分で確認できていませんので、とりあえず一般的な理解から進めさせてください。
でも、そういう説明も全然否定するつもりはありません^ ^)
でも、僕たちは夢の中でも明らかに他人が出てくることを知っていますし、そこで出てくる他人に対していろいろな気持ちや感情を抱きますよね。
そうすると、本来全然他人は関わっていない「自分」の精神活動の中でも、「他人が存在する」ことになりそうですね。
なので、夢の中で「自分」を感じるのは当然かもしれません。
あと、ここから考えうるのは、「他人」というものは僕たちが自分で作り出しているのかもしれないということですね。
②では、山奥や砂浜、田舎の一本道、誰もいない体育館など、人がいない場所ならばどうでしょう?
こういう場所では、他人の目を気にする必要がないですね。
僕たちは自由に感じるかもしれません。
子どもの頃なら、こんな風に周りに誰もいないとなると、いろいろ普段やらないことをやりそうです。
道路の真ん中に寝転んだりとか、獣のつもりで山の中で裸になったりとか(笑)
ただ、「他人の目を気にする必要がない」という言い方は注意が必要ですね。
この発想の中に、既に「他人」が前提されていますもん。
上の例でもそうでしたけど、やはり自分の精神活動の中で「他人」というものが作られるのでしょうか。
③無人島の場合はどうでしょう?
ここは本当に他人がまったくいないことを想定してみましょう。
あるのは木々や砂や水、動物などなど。
人工的に作られた道路や建物もひとつも存在しないことにしてみましょう。
どんな感じですか?
自分がひとり取り残された感じがしますか?
新しい場所に到達した感じ?
最高の開放感?
……なかなか想像できないというのが僕の正直なところかも(笑)
どうしても、元いた場所から無人島に行ったとか、無人島には誰もいないけど他には誰かがいる場所があるとか、そういう発想が抜けません。
あるいは、無人島の動植物が「自分」に対置されるものとして見えてきちゃって、誰もいないというのがイメージしづらいのかもしれません。
うーん、そもそもこういう他人がまったくいないという想定ができるのか、それ自体も怪しいかもしれないのですが、
僕たちは自分の認識みたいなのが絶対に揺らがないようにするために、何かを取り出して、それを「自分」に対置させようとするのかもしれません。
すると、何か対象を取り出すことと、「自分」が出来上がるのとは同じプロセスなのかなぁ……。
だから、他人を他人と思った瞬間に自分が自分で、その逆も同じなのかもしれません。
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本日もお読みくださいまして、ありがとうございました(^ ^)
またややこしくなるパターンですね(笑)
自分が揺らぎそうになると、自分を強く感じるのでしょうかねえ。
そういう自分というのは、やはりなんなのでしょう。
とりあえず、あまり難しく考えずにまた進めていきましょう^ - ^
皆さんもよろしければ考えてみてくださいね。
本音対話も募集中です。
以下の記事をご覧ください^_^
失礼しま〜す^ ^
ソスク