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他人を他人だと区別するのは誰なの?……というのが問題?

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皆さん、こんにちは。

 

おせち料理に少し飽きてしまうソスクと申します。

 

 

昔ならおせち料理こそがごちそうで、減っていくのが残念という家庭も多かったと思いますけど、

 

いまや僕なんかお正月はむしろ奮発して外食とか普段食べないものとかを食べたりしたい気もちもあって、おせちが早めになくなるといいなぁと感じてしまったりして(笑)

 

贅沢ですね(^.^)

 

 

ところで、昨日はこれまでで一番多くの方がブログをご覧になってくださいました。

 

ありがとうございます^_^すごく嬉しいです(^^)

 

もっと皆さんといろいろ考えていっちゃいますよ〜(^.^)

 

 

それでは、また今日のお話に進みましょう。

 

 

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昨日はなぜ僕たちが区別的な発想をしてしまうのかがよくわからん〜、というところで、それじゃあ過去の記事で出た疑問に行ってみようということになりましたね。

 

 

そこで、

 

③僕たちは、いつから、どんなきっかけで他人を区別するようになったのでしょう?

 

 

昨日、赤ちゃんはそういう区別がないように見えるというお話になりましたよね。

 

何でも舐めたり触れたり見たりするのはそういう理由かと思うのですけど、どうでしょう。

 

 

そういえば、単細胞生物かどうかは忘れましたが、本当に原始的な生物は、相手に触れるか一回取り込むかして、自他の区別をしているらしいとかテレビで見たこともあります。

 

 

……ん〜、自分で書いていて思いましたが、こういった触れたり舐めたりという行為は、物理的に食べられるかとか、危険じゃないかとか、自分に合うかとかを確認しているんでしょうか?

 

 

人体の細胞も、自分のものでなくて不適合な細胞は排除しようとしますしね。

 

 

そうすると、これは僕たちが考えたい「区別」というのとはちょっと違うでしょうか。

 

 

あらゆるものに物理的な違いがあるのは明らかですし、僕たち自身の身体と両親や恋人、子ども、さらには他の人たちとの身体が違うものなのも確かですからね。

 

 

そして、物理的に違いがあっても、(一般論としては)たとえば家族は自分たちを身内と理解して、他人と区別しています。

 

 

なので、物理的な違いは他人かどうかを根本的に決める要素ではないことになりますね^ ^

 

それじゃあ、いったい何が他人と身内、自分を区別するのでしょう?

 

ちょっと昨日と同じ疑問の流れになってきた感じです(笑)

 

 

……う〜ん、どういう方向から切り込みましょうか。

 

これこれの大きな出来事があったからこそ、他人を区別し始めた、というような独立したきっかけはないような気がするんですよね。

 

 

前回から赤ちゃんの話も出ていますから、僕たちもいつ頃から誰かを他人と思い始めたかを考えてみましょう。

 

 

記憶のあいまいな方もいらっしゃると思いますけど、幼稚園の頃にはすでにウチの人とよその人という区別があったでしょうか。

 

お父さんやお母さんには甘えるけれども、他の人にはあまりなつかないという子もいますよね。

 

僕の感覚的には、小学校に入ったら確実に区別があるのではないかと思います。

 

 

ただ、こういう頃は自他の区別があるといっても、あまり固いものではない気もします。

 

友達でなかった相手もすぐ仲間になったりします^_^

 

とはいえ、そんな仲間でも家族並みという感覚ではないことが多いのではないでしょうか。

 

 

なかなか微妙ですね^_^;

 

 

他人と自分の区別、という分け方でみてきたんですが、その区別もいろんな種類がありそうです。

 

当たり前かもしれませんけど、そのそれぞれの区別、その段階に応じて、僕たちは何か印象というか、親しみや、自分からの距離感というものを認識しているみたいです。

 

 

恋人、兄弟、親子、家族、学校や職場の構成員・友達・同僚、部活やサークルの仲間、町内会、趣味仲間、飲み友達、同じ県や地方の出身者、関西人関東人、日本人……などなど。

 

こういったいろいろなくくりに応じて、自分がどのくらい親しみを覚えるか変わってきませんか?

 

 

僕たちはいろいろ区別し、そのそれぞれに自分なりの印象を持つのでしょうか。

 

でも、どういう仕組みでしょう?

 

 

上で書いたグループ分けでも、自分が嫌悪しているグループに属している場合は、親しみは乏しかったりしますよね。

 

幼い頃からすごく虐められて育ったという人は、実の家族でも全く身内とか、親しみという捉え方ができないこともあると思います。

 

 

受け止め方というレベルのお話もありますけど、その土台となる自分がポイントなのでしょうか。

 

ん〜、ずいぶん前にも触れましたが、やはりこの「自分」というものを検討しないといけないのでしょうかねえ。

 

 

とりあえず、今日の本題の疑問③についての答えは、たぶんあまり記憶にないか、いつの間にかというところでしょうか。

 

もし皆さんの中で、明らかにこういうきっかけで他人を意識したとか、こうなんじゃないかという考えをお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非ともコメントなどお寄せください。

 

 

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ということで、本日もお読みくださいまして、どうもありがとうございます(^^)

 

 

他人というものについて何日もかけて考えてきたのですが、やはり対になる「自分」がどういうものなのかをみてみなければならないようですね。

 

 

あと、どんな仕組みで僕たちがいろいろ区別を作り出すのかというのもよく検証してみなければなりませんね。

 

 

……なんだか大変そう(笑)

 

 

いやいや、しかし、急がずとも着実に、一緒に考えていきましょう(^^)

 

 

それでは、今日はこの辺りで失礼しますね。

 

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