仲間や身内なら他人ではない……?
皆さん、こんにちは^_^
だんだんスマホからの更新にも慣れてきたソスクでございます。
歩きながらふと考えたこととか、立ち止まったりちょっとお茶をしようかと座ったりしたときにサッと書いて下書きに保存しておけますし。
あと、いいのか分かりませんが、一定量書くともうなかなか指と眼の限界に近づくので、長くなりすぎずに済むといいますか……(笑)
そんな感じです^ - ^
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それで、昨日はまず他人の属性というか、役職?、その人の位置づけから入って、どんなふうに普段見ているかを考えてみました。
今日は、そういう相手について、どんなとき、どんな場面で他人感を覚えるだろうか、ということを考えてみましょう。
まず、その相手との関係で楽しく過ごしているときには、あまり他人感を感じないのではないでしょうか。
自分が何か悩みとか、その相手に対する嫌悪感とかもっているという場合はまた別だとは思いますけども。
そんな場合でも、いつの間にか予定外に打ち解けて楽しんでしまっている(笑)
なんてこともある気がします。
対極として、自分が本当にもう落ち込みきってるとか、怒り心頭とか、そういう場合はどうでしょう。
こんな場合も、なんというか、他人どころではないという感じで、他人感がどうだとかこうだとかって何ソレ? という感じでしょうか。
そうすると、他人感がある場合というのは、手放しで楽しんでもおらず、怒りに我を忘れてもおらず、まぁその間の状態でしょうか……
というかそれって普段の状態??(笑)
う〜ん、感情的な面で見ていくとあまり定かには分からないんでしょうかね。
僕個人としては、意見が合わなくて、話し合いもなんかちょっと険悪な様子になってしまう場合とかに、
「あぁ、なんか自分とは違うんだなぁ」と感じたりするかもです。
もちろん意見が違うことの良し悪しではありませんよ。
それで、皆さんも経験あると思いますけど、意見が違っても別に対立的にならないときと、意見の違いからホントに決裂に向かってしまうときがある気がしません?
そこは何が分かれ目なのでしょう。
パッと思いつくのは、例えばプロジェクトや学園祭の成功、大事な試合に勝つこととかみたいに、お互い何か同じ目標を共有しているときです。
むしろさまざまな異なる意見を出し合うのウェルカム、という感じですよね。
それによって、今まで知らなかったアイツの意外な面が見えたり。
そうすると、何かの共有があるときには、意見の違い、ひいてはいろいろな表面的な対立も、特に他人感につながらないということでしょうか。
……そしてひねくれ者の僕はまた質問をしてしまうのですが、
何かの共有が必ずなければならないでしょうか?
共通した目標があるときには、お互いそれに向かってがんばっているので、「仲間」だから他人ではない、ということでしょうか。
自分のことよりもその大きな目標のためだからでしょうか?
ただ、そうすると、その仲間の外との関係ではやっぱり他人感ありそうですよね。
僕が小さい頃野球をやっていて体験したのは、少年野球の相手チームとの激しいヤジの飛ばし合いです(笑)
ん〜、なんか見えてきた気がするのは、僕たちは何かと「囲う」ということでしょうか。
中と外を作りたがる……?
味方を作りたがる??
しかし家族はもともと……?
家族が共有しているのは……?
でも、仲間うちでもまさに意見の食い違いとかで決裂してしまうこともありますしね。
どういうことでしょう……。
ちょっと性急には進まず、この辺りにしましょうか。
まだひとつ目の疑問ですしね。
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今日もお読みいただき、どうもありがとうございました(^^)
皆さんもけっこう考えたことのあるお話だったかもしれません。
今年も残すところあと二日とのことです。
皆さんも家族や友人、恋人たちと過ごすこともあるでしょう。
そんな人も、そうでない人も、ちょっと今日の記事みたいなことを考えてみると楽しい……かな?(笑)
それでは、今後もまたどうぞよろしくお願いしますね。
次回はこないだ掲げた疑問の二つ目に入ってみましょう(^.^)
本音対話もいつでも募集しています!
こちらについては以下の記事をご覧くださいませ^ - ^
それでは、失礼します!
ソスク