自分が自分と思うから自分なのかしら
皆さん、こんにちは!
ソスクと申します^ - ^
この頃はスマホゲームでも、昔テレビでプレイしたような作品が最適化されて販売されているんですね。
皆さんはスマホゲームってけっこうやりますか?
ポケモンGOは中高年の方がかなりプレイしていると言われていますし、若い方はもっといろいろ遊んでいるのでしょうか^_^
かく言う僕も、ファイナルファンタジーのゲームをダウンロードしてみました(笑)
……むむ、なかなかに懐かしい雰囲気……(^^)
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昨日は、
さまざまな条件や、その場のとっさの反応で僕たちの行動が決まってくるならば、人間が仲良く生きることって到底難しいんじゃないだろうか?
というところまできましたね。
いろいろな立場や考え方や経験や希望や展望や不満や怒りとかもろもろを、誰もが持っているわけですから、対立は確実です。
お互いに譲り合うべきだ、という意見に対しては、譲り合うよりも率先して善を行え、という意見が対立します。
いったい僕たちはどうすればよいのでしょう。
……ということで、ちょっと一度置いて、また頭の発酵を待ちましょうか^ ^
そこで、以前に出てきた二つめの質問である、
②僕たちは名前だろうか?
という質問に入ってみましょう。
これは比較的僕としては理解しやすいのですけど、皆さんはどう感じますか?
肩書きとかを含めても良さそうですけど、やはり生まれたときから一緒に生きてきた「名前」というものを別立てに検討してみてもいい気もしますよね。
それで、僕たちは名前なのでしょうか。
たぶんNOですよね。
どういうわけで僕たちはNOとわかるのでしょうか?
(もしYESという方がいましたら、どういう理解なのかぜひ教えてくださいね。
それぞれの感じ方を本当に検証したいのです^_^)
僕が昔あれっと思ったのは、子供の頃、学校で点呼のときに、苗字で呼ばれたことです。
「いや、それは苗字で、オレの名前じゃないじゃん」
「ウチの家族みんなその苗字で呼ばれるわ」
とまず思いました(笑)
学校とかで苗字だけで大丈夫なのは、他の人たちと区別できればよいからだと思うのです。
苗字が同じ人は、下の名前の頭文字とかも合わせて呼ばれますよね(笑)
それはいまは理解しているのですけど、そうすると続いて、自分は下の名前なのか?
という疑問につながります。
でも、また思い出してみると、僕たちはあだ名で呼ばれても自分が呼ばれたと理解しますよね。
嫌なあだ名ならば拒否して無視するとか、そもそも気づかないということもあるかもしれませんが、
通常はそのあだ名で自分が指されていることを受け入れます。
なので、実際の生誕時に付いた名前に限らず、あとから付けられたあだ名も自分を指すといいうることになります。
……すみません、僕も文章表現が不正確でしょうか。
名前やあだ名で自分を「指す」と表現してしまっていますね。
名前などは自分そのものでなく、それを指示するものとして扱ってしまっている感じもあります。
やはりそういうことなのでしょうか?
名前は僕たちを指すための言葉にすぎず、僕たち自身は名前とは別のものなのでしょうか。
僕たちはこれを体感しているでしょうか。
別の角度からみると、例えば僕たちは
「ルフィ、ねぇルフィ!」
「ルパン、ねぇ!」
「ドラえも〜ん!!」
「サザエ〜!!」
と呼びかけられても、自分のことだと思いませんよね。
でも、言葉の感じや呼びかけの方向、雰囲気で、「えっ自分のこと?」と応じたりします。
そうすると、自分の知覚に入ってきたものを、「自分」や「自分を指すもの」と認識するということなのでしょうか。
ここの作用はどうなっているのでしょう?
「自分が呼ばれたと認識する」から、「自分が呼ばれた」とわかるのでしょうか。
「これこれが自分だと思う」から自分がこれこれなのでしょうか。
すると、なぜそのように「自分だと思う」のかという疑問につながっていきますね。
これがかなり微妙でありつつ、肝であるようにも思うのですけど、皆さんはどう思いますか?
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……ふぅ、なんか回りくどいのかなんなのか、難しいですね(笑)
このまま進んで大丈夫なのでしょうか^^;
僕自身も理屈を考えつつ、自分の感覚をよくよく感じ取って検討しているんですが、どこかで曖昧になる地点がある気がします。
それが、今回最後に出た疑問なのかもしれません。
それにしてもなかなか混乱する話が続いてますね。
次回はちょっといったんこの流れとは別のことを書こうかなぁと思ったりしてます(笑)
今日もお読みいただいて、本当にありがとうございました。
本音対話も募集しています(^ ^)
よろしければ、以下の記事をご覧ください。
それでは、失礼します!
ソスク