自分という感覚ってどういうものだろう
皆さん、こんにちは。
ソスクでございます。
トランプ大統領ってスゴイですよね。
僕は全然支持者ではないのですけど、あの立場であれだけ好きなことを言えるのは才能かとも思ったりします(笑)
彼がああいう振る舞いをできるのだから、僕たちなんてもっと自由だぜ……
と思いつつ、
すると、自由ってつまり何なの?
とも思ったりして、微妙なところです。
自由については一回検討したので、今日は昨日の続きです〜
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今日からは昨日出してみた疑問をひとつずつ深めてみようかということでした。
そこで、改めて
①たったいま、「自分」という感覚があるかどうか
という質問から入ってみましょう。
皆さんはいかがでしょうか?
この感覚はかなり各個人のものではないかと昨日は書いたのですが、どんなです?
……ん〜、そういえばこれって、その通り、個人的な感覚だ、とお返事を頂いても確かめようがないのかも(笑)
いま、これを読んでくださっているあなたは、「読んでいる」という感覚がありますか?
読んでいることを自分で認識すると、どんな感じでしょうか。
逆に、読んでいることを自覚していなくて、気も散っていないときはどんな感じでしょうか?
そういう状態を一般には集中と呼ぶ気がしますけど、そのときには「自分」はどうなっているでしょうか。
よく、「自分というものがいないときが至福だ」という表現が使われたりしますけど、上の集中している状態がそうなのでしょうか。
僕個人としてなんですけど、集中しているとそのときは活力がすごいですが、それが終わったあとけっこう疲れちゃう気もします。
確かに自分にかかずらっていないという意味で心地よい面もありますよね。
これが全てなのでしょうか。
物事に集中していれば、自分に囚われなくなり、誰もが仲良く生きられるのでしょうか。(なんかこういう表現だとNOという含意になってしまいそうですね)
僕としてはNOじゃないかと思うのですが、よくわかりません。
皆さんの感覚はいかがですか?
まず気になるのが、集中する事柄、内容じゃありませんか?
集中してライフルを人に向けて撃つのも困りモノに思えます。
こういう心配をすることじたいが発想として誤っているという可能性もありますよね。
ある行動はよろしくない、という一定の立場からの評価ということですから。
では、単に
「僕たちはライフルを撃ちません」
(と言える)でしょうか。
……とても伝わりにくいですよね。
集中して、熱中して、全力で活動していると、エスカレートして乱闘になったりしそうなのですけども、どうでしょう。
サッカーの例を見てみると、選手は明らかに自分など忘れて熱中してプレイして、ひどいファウルがあって、やった側もやられた側も全力で取っ組みあったりしますよね。
ライフルは撃たないけれど、どついたり頭突きをしたりはします。
サッカーは極端な例ですが、ちょっとしたコンビニの店員さんの応対などでも、僕たちはつっけんどんに反応したりします。
こういう瞬間って、「自分」はいない感じがしません?
集中するしないということに関係なく、ただ怒っているようにも思うのですが、体感的にいかがでしょうか。
そして我に帰ると、自分のしていることに気づいて、止めるなりなんなり対応する。
そうすると、やはり自分という自覚がないと行動がガチャガチャになってしまうともいえそうですね。
これはどうやら「自分」と「自覚」というものが別のものかも、というところにつながっていきそうでしょうか。
……なかなか混乱してきました。
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今日はこの辺りにして、ちょっと頭を休めさせて下さい(笑)
一文章何かを書くと、そこからまた意味の広がりが生まれてしまって、本当にまとめるのが難しいです。
そういえばトランプ大統領は演説のとき、自分というものを感じているのでしょうかねぇ。
暴露本を非難するツイートのときは明らかに自覚はなかった……のかな?(笑)
今日もお読みいただき、どうもありがとうございました。
少し前にブログランキングに登録したのですが、記事の下の離れたところにあるのにボタンを押してくださる方も想像以上にいらっしゃって、とても感謝しています^_^
(誘導しているみたいで少しずるいですね。すみませんσ^_^;)
本音対話も募集しています。
以下の記事をご覧くださいませ。
それでは、失礼します(^ ^)
ソスク